18年の1月28日、つまり昨日の朝7時の放送大学で写真ジャーナリストにインタビューの番組があり、種にチェルノブイリ原発事故、イスラエルにおける話題、東日本震災の話があり、イスラエルの話では、どっちの人たちかはよくわからないがイスラエル軍隊の横暴により地域の数人が死亡したという。この件では、外国のジャーナリストがその現地か現場にいると横暴さについては抑止効果があるという。実際に死亡した遺族によるとなぜ、かのジャーナリストはその地を留守にしていたのだと嘆かれたという。

チェルノブイリでは、放射線測定器を携行し危険性を触れ回ったという。

太平洋の震災では、事故後3日後に双葉町の役場の玄関まで行き彼の測定器で測定したところ、彼が今まで経験しなかった線量が測定され、どうしていいかわからなかったと発言している。

極端な状況におけるジャーナリズムは、残念ながら、功名心で行うような輩も多いという。フォローやその後の事情に配慮がないというわけであろう。嘆かわしいとしても、そんなところであるということだった。

太平洋沖地震で、写真において気持ちが込められている報道や記録をしたジャーナリストを評価しようという活動もされているということだ。

抑止効果があるというジャーナリズムの特殊性について、その観点で日本語のメディアを見れば、宣伝に過ぎないか、せいぜい例えばオリンピック選手の不安を、場合によれば軽減することがあり得る程度に過ぎず、あれは、ジャーナリズムではない。

そのようなジャーナリズムが、存在しないというならそれは、違うというべきだ。ただ、現場の放送現場や、執筆者も、あくまで人事権において支配されているため不審を持たれることはある。

この間、朝日新聞赤報隊なる襲撃についての一説TVがあったが、あのようなことで委縮したというなら、かなりおかしい。 官僚の絶対視、例えば池上ショウや東大優越主義、例えば林修などが、わかりやすいなどとよく使われている。

林も、池上も、いわゆる偏差値主義だ。偏差値を否定するのではないが、別の何物かの意図に従っている、無知蒙昧の程度にだ。

学校に限らず、職の状況次第という協調が暗示されている。 池上のごときは、国の歳出において、社会保障国債費、防衛費、公共投資のほか、その他に触れていない。その他は10%弱である。なぜこの男は触れないのか。 林修も同様で、序列が体制のように見なしている。 カルトは人事院の関与する試験の正当性に論評を避ける。 混ぜ返されると、うまく言い返さないなどとパニックになるようである。

 この連中の小ささが、垣間見える。

 

一言言おう。そういうやつらが、人事院の試験に干渉するのだ。就職試験も同様だ。

また、なにか、利権になりそうな動きをした時も同様だ。 後付けの、黙れ!に過ぎない。

先週の朝までのテレビでも、問題意識がある人もいるが、序列を維持しようという蒙昧な頑迷さがある。

安倍首相を学歴コンプという人がいるが、人事院に批判できない議員などもコンプだ。利得を得る得ないではない。識見がないのだ。碌な見識が出るか。

 国会議員に意見表示したことがあるが、あちこちにこちらの同意や連絡さえない状況で撒かれたことがある。 欠席裁判、人民裁判よろしく炎上である。

ところが、国会議員には守秘義務はないと言い放つ、福島というパヨクに言い放たれた。 このようなものを見ていると、あの程度の自称リベラルは、

ダブルバインドを施行、実践しておりイルミナティ、もしくは訳ありの人格障害であろう。 人格障害を引き上げるのがイルミナティの本質だと考えている。

この連中の小ささが、垣間見える。